大腸小腸絶不調

生活は下手クソですが、得意気に生きるのは得意です。

『100回』

 

佑真は指をぱちんと鳴らした。

隣を歩いていたスーツ姿の男が歩みを止めずに振り向いたが、何もなかったかのように視線を前方に戻し、淀みなく駅に向かっていく。指を鳴らしたことに反応したのはその男だけで、後ろを歩く女子高生達は寒さへの文句を連ねるのに忙しく、OLらしき女性は耳にワイヤレスイヤホンを着けていて気付いてすらいない。横断歩道の手前で止まっているタクシーの運転手はハンドルに肘を置き、早く渡れよと言わんばかりの仏頂面で通行人を眺めている。

佑真はタクシーの運転手の方を見るのをやめ、右手をコートのポケットにしまった。ポケットの中のカイロを弄びながら、もう100回は超えてるかもしれないな、と頭の中で独り言を言い、マフラーの中で誰にも見えないように、小さく苦笑いした。

 

 

「佑真、実は俺ハシカンと付き合ってんだ」

「何回目だよ、それ言うの」

自分の弁当をつつきながら適当な返事をしてやると、翔は食べ物が口に残った状態で、もごもごとしながらも「7回」と答えた。口の中が綺麗になってから続ける。

「佑真に言ったのは今ので7回目。うちの兄貴とか、ゴールデンウィークに会った中学の友達にも言ったのを合わせて11回目だ」

佑真は少し驚いた。他でもこんな話してるのか、と、どうして回数なんて覚えてるんだの2通りの返しを思いついたが、理由の方が気になって後者のボールを投げてやることにした。

「どうして回数なんて覚えてるんだ?」

翔は箸をこちらに向けて勢いよく言い放つ。

「知ってるか佑真。嘘って100回言えばホントになるんだってよ。今佑真に言ったので11回だから、あと89回この呪文を唱え終えた頃には、俺もハシカンと付き合ってるってワケよ」

あまりにも自信に満ちた風でバカなことを言い出すので、佑真は飯を吹き出しそうになった。無理に止めようとしたせいで米粒が気管に入って盛大にむせた。涙目になりながらどう返すのが正解か考えていたが、翔が馬鹿じゃないことを佑真は知っていた。佑真の咳が落ち着くまで、翔は腕組みして笑顔でこちらを見ていた。キャッチボールでグローブを構える子供みたいだと思った。

「楽しみにしてるよ。成就したら紹介してくれよ」

翔はより一層笑顔になった。

「任せろ」

 

それからは古文の教師の活舌が悪くて話を聞き取るのが大変だとか、行きの電車で体臭のキツいおっさんが隣にいて最悪だったとか、他愛のない話をしながら昼食を終えて、翔は部活の仲間とグラウンドに向かった。

 

 

一人になって携帯をいじっていると、ふとさっきの話を思い出し、ブラウザを立ち上げて[嘘 100回]で検索をかけてみた。

どうやら大本はナチス時代のプロパガンダの天才と呼ばれた男の言葉らしく、大きな嘘を頻繁に繰り返すうちに、人々は最後にはその嘘を信じるだろうという政治的思想のお話だという。

「そりゃハシカンとは付き合えないよな」と呟き、佑真は携帯を鞄にしまって窓の外を眺めた。そんな魔法みたいなことが起きないのは翔もわかっているだろう。ただ、退屈に真っ向から向き合おうとする翔の姿勢を、佑真は少しだけ尊敬したし、その相手が自分であることを、少しだけ誇らしく思った。

 

 

6月の中頃、5日間続けて雨が降った金曜日のことだった。制服の裾が濡れるのにもいい加減うんざりしながらいつもと同じ電車に乗ると、大きなキャリーを引きずったおばさんが強引に乗り込んできた。

キャリーが足にぶつかるわ、濡れた傘を当てられて制服が濡れるわ、悪天候続きでうんざりしていたのもあって、佑真は急速にストレスが溜まっていくのを感じていた。何故わざわざ混む時間にこんな荷物で、しかも混雑している車両に乗り込んでくるんだとか、せめて人に荷物が当たらないように気配り出来ないのかとか、ぐるぐると考えていくうちに、気遣いの出来ない人間なんか死んでしまえばいいのに、とまで思ってしまった。

脳みその冷静な部分が、良くない考えだぞと警告を出していたが、膨らみ続ける苛立ちの下に埋もれてしまった。何か手は無いかと考えていた冷静な部分は何故か、箸を片手に得意気に話す翔の顔を、突然思い出させた。昼休み、弁当を食べながら話す翔の様子を頭の中で再生する。

嘘も100回言えばホントになる、か。佑真は他人事のようにリプレイを見ていたが、一人歩きしていた意識が急に足を止めて、こちらを振り向いて、言った。「嘘も100回言えばホントになる」なら、100回までは起こり得ないことを言っても大丈夫じゃないか?

佑真は面白いことを思いついた表情になり、小学校の国語で習った、信号機を変える魔法の話を思い出していた。「えいっ」と言って指を鳴らすと信号機が赤から青に変わる魔法。当時は本当に魔法だと思っていたが、今なら自分も同じ魔法が使えるだろう。

ポケットの中で右手を指パッチンの形にして、隣で時計を確認しているおばさんを横目で捕らえた。体内で練り上げたエネルギーをぶつけるように<消えろ>と念じた。同時に指を鳴らそうとしたが、ポケットの中で少しかすれた音が鳴っただけだった。

数秒のあいだ様子を見ていたが、おばさんはスマートフォンの液晶を鏡代わりにして髪を整えている。もちろん何も起こりはしない。

そんな魔法みたいなこと、起こるはずがない。

学校の最寄り駅で電車を降り、ポケットから右手を出してもう一度指を鳴らしてみた。弾いた指がぱちんっと思いのほか大きな音を出して、佑真はどぎまぎした。学校まで歩きながら指を鳴らさずに感触だけ確かめていたが、苛立ちがすっかり消えていることも、少し楽しくなっている自分がいることも、この時には気付けていなかった。

 

この魔法のことを翔に話してみようかと思ったのは、もうじき梅雨も明けようかという頃だった。

「そういえば、いつハシカン紹介してくれるの?」

昼休み、雨のせいで暇を持て余している翔に聞いてみると、一瞬きょとんとした顔をした後、翔は笑いながら「バーカ」と肩を小突いてきた。

「カンナちゃん、仕事で忙しくて全然会ってくれないんだよね」

「せっかく100回も呪文唱えたのになぁ」

「ホントだよ。ウチのインコも「ハシカン!」って言えるようになったのに」

くだらない話をして笑いあっているうちに昼休みが終わり、お互いに別の授業へと向かった。翔が実際に100回も唱えていないことを佑真はわかっていたし、翔もそのつもりで話していただろう。

翔の魔法と自分の魔法を比べてしまい、佑真はますます嫌気が差した。排気ガスのような重たい溜め息が口から出てきて足元に溜まる。佑真は魔法のことをそっくりまとめて、自分だけの領域にしまっておくことに決めた。

 

夕食を済ませて自分の部屋に戻り、数学のテスト範囲を復習している間に、今朝遭遇したタクシーのことなどすっかり忘れていた。キリの良いところで時計を確認すると22時を回っていた。休憩にしようと昨日買った漫画雑誌を読み始めたところで、ノックの音が鳴った。

「進んでる?」

振り返ると、母が麦茶をのせたお盆を片手にドアを開けて入ってきた。まだノックの返事をしていないと文句を言おうとしたが、母に先手を打たれた。

「またサボってるのね」

「やってるよ。ちょうど休憩してたとこ」

「どうせ漫画読んでる時間の方が長いんじゃないの」

カチンと来て何か反論しようとしたが、確かに身に覚えもあり上手く言葉が出なかった。振り上げた拳が頼りなくてむしゃくしゃした。

「わかったよ。やるよ」

漫画雑誌を床に放って、むしゃくしゃしたまま机に向き直る。佑真の態度に母もトサカに来たらしく、「大体ね」と小言を吐き始める。

しばらく無視に徹していたが、母の小言はなかなか収まらなかった。いい加減腹立たしく思った佑真は、母の言葉が途切れるタイミングを見計らって、机に向かったまま右手の指をぱちんと弾いた。

いつもよりも軽快な音が鳴り、自分の指先に誇らしげな視線をやった直後、背中の後ろで何かが派手に落ちる音がした。

驚いて椅子から飛び上がるように立ち上がり、そのまま振り返ると、お盆とグラス、中に入っていた麦茶と氷が、床にぶちまけられていた。

それなりに高いところから落ちたのか、勢いを持て余してお盆がぐわんぐわんと跳ねている。自由になったグラスが転がっていき、本棚にぶつかって止まる。床に撒かれた麦茶が佑真の足元の方まで迫ってくる。床に放った漫画雑誌が、麦茶をみるみる吸っていく。

小言を言い続ける母親を煩わしいと思ったこと、右手の指を鳴らしたこと、指を鳴らした時に念じたこと、人が持っていた高さから落ちたであろうお盆やグラス、それを持ってきた母親が、いなくなっていること。

目の前で起きていることの全てを、佑真の頭は正しく理解していた。しかし、それらの情報をそのまま受け入れられる器は、佑真の中には用意がなかった。

数瞬経ち、足の裏に伝わる冷たさで現実に引き戻された。麦茶が靴下に染みている。傷口に貼った絆創膏が赤く滲んでいくように、佑真の心にも現実が行き渡り始める。

硬直していた心が、本能に近い部分からかろうじて動き始める。震える肺から絞りだした空気が、意図せず「元に戻せ」という音になって出てきた。腕を持ち上げることが出来ずにそのまま指を鳴らしたが、ひどくスカスカな音が鳴った。もちろん何も起こりはしない。起こるはずがない。

 

そんな魔法みたいなことは、起こるはずがないんだ。

 

「大丈夫か?」

階下から父の声がする。佑真は母がいた場所から視線を逸らすことさえ出来ない。

「おーい、大丈夫なのかよ」

返事がないことを訝しんだ父が、声を上げながら階段を上がってくる。どすどすと乱暴な足音が聞こえてくる。

佑真はその場から一歩も動けなかった。足元から伝わってくる冷たさで心臓まで凍りついたみたいに、その場で固まっていた。

だんだん冷えていく頭と心で、自分自身に<消えてしまえ>と念じ右手を構えたが、指は鳴らせなかった。もう佑真に魔法は使えなかった。